足るを知る
何が「十分」かは、自分で決めていい。ストレングスファインダー最上志向、幸福度研究、そして自己決定という話。

「足るを知る」という言葉があります。
老子の「足るを知る者は富む」が出典で、一般的には「今あるものに満足しなさい」という文脈で使われる言葉です。
正直に言うと、私はこの解釈と相性が悪い人間です。
ストレングスファインダー(クリフトンストレングス)を受けると、34資質の第1位が「最上志向」。優れたものを最高レベルに変えようとする性分がトップに来るタイプです。
実際、やりたいことを書き出したら平気で10個を超えます。日本一周を歩きたいし、いつかオーケストラを一夜だけプロデュースして、最後に自分でチェロ協奏曲を弾きたいとまで思っています。
面白いのは、そのレポートの「盲点」の欄にこう書かれていたことです。
「『十分良い』が適正かつ適切であることを受け入れなければなりません」
最上志向の人間にとって「足るを知る」は苦手科目として診断されている。そんな人間がこの言葉を語るのは矛盾しているようですが、最近この言葉の意味が自分の中で書き換わりました。
幸福度を決めるのは、所得でも学歴でもない
以前、社員研修の事前課題として「私にとっての自由とは?」というお題を出したことがあります。
そのとき出てきた自分の持論が「自分で意思決定できる割合が多いほど幸福度は上がる」というものでした。
この持論には裏付けがあります。神戸大学と同志社大学が日本人約2万人を対象に行った共同研究では、幸福感に影響を与える要因として、健康、人間関係に次いで「自己決定」が来る。所得や学歴よりも上です。
自分で決めた道は自分の判断で努力できるし、結果に責任も誇りも持てる。逆に言えばどれだけ稼いでも、他人の物差しで生きている限り満たされない、ということです。
「足る」の基準は誰が決めているのか
この言葉が窮屈に聞こえるのは「足る」の基準を他人に決められている前提で読むからだと思います。「そのくらいで満足しておきなさい」と外から言われたら、それはただの我慢です。
でも、基準を自分で決めるのだとしたら話は変わります。
足るを知るとは「何が自分にとって十分か」を他人の物差しではなく自分で決めること、ではないか。
諦めでも我慢でもなく、自己決定の話。つまり、幸福度の研究とまったく同じ結論に行き着きます。
足りている領域と、足りていない領域
この解釈に立つと、自分の判断が一本の線でつながりました。
たとえば会社の規模。私は経営者として、売上を追える局面でもあえて追わない判断をすることがあります。今は子どもが小さく、家族との時間を最優先にすると決めているフェーズだからです。この領域は今、足りている。そう自分で決めています。
一方で、家族と過ごす時間の質、仕事の面白さ、やりたいことリストの消化。ここには一切ブレーキをかけるつもりがありません。
つまり「足るを知る」は、すべての欲を手放すことではなく、足る領域と足らない領域を自分で仕分けること。何かに「もう十分だ」と線を引けるのは、別の何かに全力を注ぐと決めているからです。最上志向は捨てなくていい。注ぎ込む先を自分で選べばいいだけです。
結局、自由の話に戻ってくる
他人の物差しで測られる限り、人はいつまでも足りません。年収も会社の規模も、上には必ず上がいます。その競争から一度降りて「自分にとっての十分」を自分の言葉で定義できたとき、初めて「富む」のだと思います。老子の言う「富」は、たぶんお金の話ではありません。
私にはまだやりたいことが山ほどあります。それでも今の生活を「足りている」と胸を張って言えるのは、その基準を自分で決めたからです。
何が十分かは、自分で決めていい。それが、私の「足るを知る」です。
PS 長女に「お父さんとアンパンマンはどっちが好き?」と聞くと、2秒考えて「アンパンマン」と答えてます。天才です。
Read Next
この記事の次に読みたい、近いテーマのストーリー。
Editor's Note
Editor's Note
Editor's Note